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君と一緒に生きよう☆ [読書]

今は、犬や猫を飼っている人が多くなった様に思いますが、そんなペットを飼っている人で、飼っている動物達には自分と同じ「命」があり、「心」があり、「感情」があるってことをちゃんと理解して飼っている人はどれだけいるのでしょうか?

「ペットを飼おう」と思った時、飼ったその時からその動物への責任が自分に発生するということをちゃんと考えて飼ってる人はどれだけいるのでしょう?


私は、小さい時から犬が家にいる生活をしてきました。
だから、犬は大好き。
結婚して子供を産んだ頃までは、犬を飼うという考えはなかったのですが、子供がある程度大きくなってきた時、あるコンビニの前で買い物をしている飼い主を待つ犬に出会い、その健気な姿が可愛くて、それまで封印していた「犬との生活」が頭に浮かび、犬を飼う事を考え始めました。

「犬を飼いたい」とパパに言ってもなかなか良い返事をしてくれなかったパパでしたが、ある日突然「犬を見に行こう」という言葉に、本当なら嬉しくてならないはずなのに、何故か私は急に不安になったんです。
私の不安・・・・それは、「ちゃんと育てられるだろうか」という事。
それまで、ただ犬との暮らししか頭に描いていなかったのですが、犬の生活が実現するとなった時、その時初めて犬の命を預かる事の責任を急に意識してしまったんです。

考えてみれば、ずっと犬のいる生活をしてきたと言っても、日中は学校へ行ってたり、大人になったら仕事があるので、面倒を見ていたのは私ではなく、すべて母だったのです。
まともに、動物を育てた事のない私が、本当に犬を飼ってその子の命を守れるのか・・・・
悩みました。

そんなことを考え出したら、「小さな命を預かる」ことが、とっても怖かったです。

でも、Kenと出会った時、それまでの不安な気持ちは何処へやら。
「この子となら、やっていける」みたいな気持ちが湧いてきて、それから13年と約3ヶ月を一緒に暮らしました。

亡くなった時は、悲しかった。
「私は、Kenに十分な事をしてあげられたのか」
「もっと、何かしていたら、もっともっと長生き出来たのではないか」

沢山の事を今でも考え続けています。

人からは「ちゃんと愛情もって育てたじゃない」と、言っていただけます。
自分でも、自分なりに育てたのではないかと思っても、自信をもって「私は頑張った」なんて言うません。


一つの小さな命を預かるって、本当に大変な事なんですよね。


私は、Kenと出会って一緒に生きてきた13年と約3ヶ月を振り返って、動物を育てることに自信がつくどころか、ますます「命」を預かることの責任の重さを、今感じて居ます。

そして、Kenの後に再び犬を迎えたいと思った時、一番考えたのは「最後まで責任もって飼うことができるだろうか」ということ。

自分が、元気な限りは「責任もって・・・」と言えますが、こればかりはわからない。

でも、犬との生活はしたい。
それで、家族には「ママは、もう一度犬を飼いたいのだけれど、ママもKenを飼った時より年をとったので、新しい子を迎えても、もしかしたらその子の最期まで生きていないことも考えられるので、その時は新しい子の面倒を見てもらえる?」って聞きました。

すると、娘が「ママ、多分ママは新しい犬を今飼っても、その犬を看取るまで十分生きていると思うけど、万が一そんなことがあった時は、私がちゃんと面倒見るから安心して。」と言ってくれました。

それで、今の文を迎えることになったんです。

もちろん、私がいなくなったら他の家族が面倒見てくれると思ってましたが、そこらへんは言葉として聞いておきたかった。

動物は、「感情」を持っていても、人間の言葉が話せないし、一人では生きていけない。
だから、私たちは動物を飼ったらしっかり最後まで責任をもたなくてはいけない。

そんなことを、再度思わせた一冊の本があります。
それが、これです。

「君と一緒に生きよう」


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この本は、実際にあった話を一年間取材して新聞に掲載していたものを本にしたようです。
この本に出てくる犬達は、いろんな状況に陥り、後少しのところで殺し余分から逃れ、里親に引き取られて幸せになった犬達の話が掲載されています。

今ペットブームで、ペットショップには沢山の犬が売られ、その犬を簡単に飼っていく方も多くいます。
そして、最後までその家族して生きられればいいですが、飽きてしまってまるでおもちゃの様に簡単に捨ててしまう人や、育てることを放棄する人が多くなっている様です。

また、ブリーダーにも悪質なブリーダーもいるようで、ただ子犬を産ませるだけでなんのお世話もしないため、犬達の体調や衛生面も酷いことになっているらしい。

ある地域では、不要となった犬や猫を自治体が回収に行き、飼い主だった人はまるでゴミを出す様に連れていくそうです。
普通、野良犬や野良猫や迷子の犬や猫は、保健所へ連れて行かれ一週間は保護され、その後は・・・・皆さんのこ存じの通りです。
ところが、不要となった犬猫は、回収日の翌日に処分されるらしいです。

こんなところがあるなんて、初めて知りました。
初めて知ったのは、そういうシステムがあるということもですが、犬や猫を「不用品」のような扱いをしてゴミ出しのように捨てる飼い主がいるということです。

不要の理由も「飼えなくなったから」。

飼えなくなると、捨てていいんですか? 殺していいんですか?


この本の中には、そんな崖っぷちに置かれた犬達を救う活動をしているボランティアの方達の話を参考にして書かれているんです。

でも、そのボランティアの方達は、ただ崖っぷちの犬を救うために、自分の生活も投げ足されて頑張っているんです。
そして、救った犬達が幸せになれるよう、里親探しを一生懸命してくれています。

ボランティアの方達に救われた犬達は、今はとても幸せに満ちた表情で暮らしています。


でも、救われた犬はほんの一握り。
救われなかった犬の数え切れないくらいいるんです。


同じ犬や猫に生まれながらも、初めから幸せに生きている子。
生まれた時は、辛かったけれど、誰かの手によって救われ幸せになれた子。
何も悪いことをしていないのに、辛く苦しい思いをしながらこの世を去っていった子。

「命」の重みは、人間も動物も同じであることを、もっと理解しなくてはいけません。

そして、その「命」を大切にするにはどうしたら良いのか考えて欲しいですね。













宇宙のみなしご☆ [読書]

学生の頃というのは、何故か皆んなグループを作って行動していませんか?
どうしてでしょう。
私と言えば・・・・
率先してグループの中へ入ろうという方ではなかったと思いますが、気がつけば・・・・
やっぱり、4〜5人のグループの中に入っていたような・・・・いえ、入ってました。(⌒-⌒; )

でも、ある時思ったんです。

「グループの中に居る自分て、何か人に合わせているんじゃないか。」って。
別に、皆んなと同じ事をしなかったら、仲間はずれってわけでもなかったんですけど、群れていると自然と「合わせる」って気持ちが生まれてくるような気がしてなりませんでした。

そんな事を思っていた時、いつも一緒に行動している友達の一人が学校へ来なかった時があったんです。

朝、いつもの様に、駅で皆んなと待ち合わせて学校へ行ってたんですが、その待ち合わせ場所に彼女は来なかった。
取り敢えず、風邪かなんかでお休みだろうという事で学校へ行ったんですが、先生から「今日、◯○はどうした?」と聞かれ・・・・
どうも、お休みの連絡が入ってない事から、ズル休みをしている事がわかった。

「彼女は、どこへ行っちゃったんだろう」って友達皆んなで心配していたら・・・・

何と、お昼過ぎに彼女は、普通に登校してきた。

どうしたのか聞くと、彼女は涼しい顔をして「観たい映画があったから、学校エスケープ(これは死語ですかねぇ〜)して、映画を観てきたの。」というじゃないですか。
もう、呆気です。(⌒-⌒; )


でも、その時思ったんです。

「かっこいい!!」って。


だって、そう思いませんか?
自分のやりたい事を、一人でやるって凄いです。
高校生っていうと、子供でもないし大人でもない。
ちょっと、中途半端な立ち位置。
何かするには、必ず親の承諾が必要な年齢。
そんな、どう年齢の友達が、親や先生を恐れる事なく、自分の思い通りに行動した。

何か、「大人」って感じがしました。

ただ「大人」になるって事は、全ての責任は自分に有り、自分一人で対処しなくてはいけない。
それを恐れず、やってのけた彼女は凄いと思った。

いつも、彼女は私達のグループの中に居て、一緒に行動していたけれど、グループという物に「仲間」とか「安心感」を求めていたわけではなく、学校では仲のよい友達と行動を共にしていたが、彼女はしっかりと自分を持っていたんです。


今は「群れる」という言葉があるくらい、老いも若きも群れて生活しています。
大勢で群れていれば、安心で楽ちんだと思いますが、それではいつまで経っても自分を輝かせる事って出来ないんですよね。

どんなに群れていても、人間は生まれる時も死ぬ時も一人って事にどれだけの人が気付いているのか。
群れの中にいては、自分を輝かせる事なく、誰にも見てもらう事なく終わってしまう。
どんなに小さな輝きでも、自分らしく輝いて生きていたい。

なんて、高校時代の事を思い出させてくれた一冊の本。

それが「宇宙のみなしご」という本です。

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陽子とリンは年子の姉弟。
両親は、仕事が忙しく、殆ど家にいないため、陽子とリンはいつも二人で思いついた遊びを楽しんでいた。
ある日、陽子とリンはある遊びを思いついた。
それは、真夜中に近所の家に忍び込んで、その家の屋根に登ること。
最初は、二人で遊んでいたが、リンが同じ陸上部の七瀬さんという陽子の同級生にその遊びを話した事で、七瀬さんも加わり三人で登ることになった。
そして、三人で他人の家の屋根に登った時、クラスのいじめられっ子に
その様子を見られてしまう。

陽子と同級生の七瀬さんというのは、「若草ものがたり」という四人グールプの一人で、おとなしくて優雅な感じのグループにいた。
しかし、七瀬さんはそのグループに違和感を感じていて、ある日思い切ってこのグループを飛びだすために、ある行動に出た。

そして、陽子のクラスのいじめられっ子というのは、みんなから「キヨスク」といわれていた。
彼は、陽子やリンや七瀬さんの三人が人の家の屋根に登っているのを見た事により、一緒に他人の家の屋根に登ることになってしまう。


何気ない屋根のぼりから、自分らしく生きる事の大切さを四人は知る。




「自分らしく生きる」という事は、グループや人の目を気にしていては絶対自分らしくは生きられない。
グループの壁や人の目という壁を乗り越えてこそ自分らしく生きられ、自分を輝かせる事が出来る。

自分が輝いていれば、自ずと人の輪はできるもの。
でも、勘違いをしてはいけない。
その輪は、群れとは違うということを。
群れは、塊でしかない。

だけど、あなたが輝いて出来た人の輪は、あなたと同じように一人一人が輝いているから(^_^)☆


一人でも、ずっと輝いていられる人間になりたいですね。


リボン [読書]

久しぶりのブログです。
転んで手を怪我してからなかなか治らず、日常の事はなんとかできるようになりましたが、PCをずっと使っていると手がだるくなるので、ブログを途中まで書いて保管の繰り返しで最後まで書き上げる事が出来ませんでした。(⌒-⌒; )
皆様のところへも、拝読させて頂いてもコメントを書けなかったりと、大変失礼いたしました。m(_ _)m
で、なんとか書けるようになったので、ブログを掲載しようと思ったら、今度はPCのバージョンアップで色々変わり、写真の取り込み方がわからなくなって、又々ブログアップできず。
全く、メカに弱い人間は大変です。
そして、やっとパパに教えてもらって何とか今日ブログをアップできる様に・・・・

今日は、久しぶりに読書の話をさせて頂きますので、宜しかったら読んでくださいね。(^_^)☆


さて、動物病院の待合室の掲示板や、お散歩で歩いている時に電柱やガードレールで見かける「探しています。」の貼り紙。
そこには、飼っていた犬や猫や鳥などの写真と特徴や性格が書かれ、大切な家族が無事帰る事を願っている飼い主さんの思いが伝わってきます。

そして、その動物達も写真の様子から、飼い主から愛情をたっぷりもらって育てられている事が感じ取られる子達ばかり。

貼り紙を見ているこちらの方まで、とても心配になってきます。
そして、早く見つかって飼い主の元へ帰って欲しいと願うばかり。

先日も、文がパパの実家から飛び出して行った時、どうなるかとハラハラしましたが、我が家の場合はパパがなんとか捕まえたので良かったですが、あれで捕まらなかったら車にひかれていたかもしれないし、車にひかれる事がなかったにしても、どこかへ行ってしまい我が家もまた「探しています。」の貼り紙をしなくてはいけなかったかもしれません。
そして、文が見つかるまで生きた心地がしない日々を送っていなくてはいけなかったかもしれなかったんですよね。

動物とはいえ、毎日一緒に生活を共にしていれば、言葉は通じなくても同じ生命を持った者同士は心で理解し合える。
多分言葉で意思の疎通をとるよりも、心で語り合う方がずっとずっと深く相手と解り合えるように思うんです。
その家族が、急に居なくなるのですから悲しみは大きいです。


そんな悲しみを、20年間心に持ち続けて生きて来た少女と老婆がいます。


その本が「リボン」です。

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すみれちゃんとひばりちゃんは、親友です。
と言っても、すみれちゃんはひばりちゃんの血の繋がらないおばあちゃん。
というのは、びばりちゃんのお父さんはすみれちゃんが養子として迎えた息子だからです。
でも、すみれちゃんとひばりちゃんは「親友」と言えるほど仲良し。
バードウォッチングが好きなすみれちゃんは、お隣の庭から伸びだ木の枝に鳥の巣を付けさせてもらい、その巣に訪れる鳥をすみれちゃんは楽しみにしていました。

そんなある日、その巣箱に卵を産み姿を見せなくなった母鳥の代わりに、すみれちゃんが卵を温める事にしました。
卵が孵るまで、すみれちゃんはずっと卵を温め、三つあった卵のうち一つだけ雛に孵り、その後もすみれちゃんは雛鳥のお母さんになったように餌をあげたり、ひばりちゃんにお手伝いしてもらいながらお世話をしていたんです。

雛鳥の名前は「リボン」と名付けました。
雄か雌かはわからなかったのですが、雛鳥はすみれちゃんとひばりちゃんを結ぶ絆を意味して「リボン」とすみれちゃんがつけたのです。

そして、リボンが誕生して半年が経った時です。
事件が起きました。
その日、リボン誕生半年のお祝いをする事になっていました。
ひばりちゃんは、学校帰りにリボンの好きなハコベやすみれの花を摘んでブーケを作り家へと急ぎました。
家に着いて玄関を開けると、そこには靴下のまますみれちゃんが倒れていたのです。
リボンは、すみれちゃんが籠のお掃除をしている時、部屋から逃げ出してしまっていたのです。
一所懸命探したけれど、リボンの姿はもうどこにもなかった。

その後リボンは、いろんな人との出会いがあり、リボンと出会った人たちはみな生きる力を取り戻していく。
リボンは、すみれちゃんの願い通り色々な人と出会い、その絆を結んでいきます。

リボンが居なくなった後も、すみれちゃんとひばりちゃんはいつかリボンが戻って来る日を待ち続けますが、すみれちゃんはリボンとの再会を果たす事なく天国へと旅たってしまいます。

ひばりちゃんも、体を壊しすみれちゃんがなくなると益々生きる力を失っていく。
そんな時、すみれちゃんの願いを叶えるためにドイツへと旅立ち、帰国した時フッとあるところへ向かうと・・・・

最後が、とても感動的。

生きるという事は、とても大変で辛い事もあるけれど、決して一人ぼっちではなく、みなどこかで繋がっている。
顔を見た事がなくても、必ず人と人は繋がっている。
だから、頑張れるんだと思う。
そんな事を感じさせてくれる一冊でした。(^_^)☆



この話に出てくる鳥は、オカメインコなんですが、昔ある雑誌の連載にオカメインコと犬のお話があったんです。
そのオカメインコと犬の関係がとても可愛くて、うちもオカメインコを飼いたいと思った事がありました。
オカメインコの名前は「あずき」ちゃん。
Kenとあずき。
Kenとあずきが仲良く遊ぶ姿を想像しながら、絶対飼いたいと思っていたんですが、パパがとても反対したんです。
Kenを飼うときは、初めいい返事はしなくても「ダメ」とは言わなかったんですけど、オカメインコはきっぱり「ダメ」と言ったんです。
で、それ以上「飼いたい」は言わなかったんですけど、文を飼い始めたらまた「オカメインコが飼いたい病」が出てきて「飼いたい」と言ったんです。
すると「オカメインコの寿命知ってる?」と聞かれ、戸惑う私に「20年は生きるんだけど、大丈夫?」と逆に聞かれてしまいました。
この本を読んでも、確かに寿命が長い事が解り、自分の年を考え諦めました。(´・_・`)

文を飼う時も、自分自身が責任もって飼う事ができるのは15〜6年だろうと考え、文が最後の犬と決めたので、20年寿命のあるインコは無理と思いました。

でも・・・・この本読んで、やっぱりオカメインコ欲しいなぁ〜(⌒-⌒; )










旅の仕方☆ [読書]

旅をするのは、お好きですか?
ってお尋ねして、「嫌いです」と言われる方はいないとは言い切れないけれど、まずほとんどの方は「好きです」って答えられるでしょう。

でも、旅ができるのは、やっぱり健康でいてこそ。
色々な理由で、旅をしたくても行けない方も沢山いらっしゃることと思います。

私も旅はしたいと思っていますが、子供も大きくなると自分の予定を重視するので一緒に旅行へ行く機会は少なく、また子供を置いて夫婦で・・・・とか、自分だけという考え方は私の中にないので、結局どこへも行けずにいます。
そんな私を見て母が、娘も社会人になったのだから今度はパパと二人で旅行へ行ってらっしゃいなんていうんですけど、いくら子供が社会人と言っても女の子を一人置いて旅へ出るなんて、どうしてもできない私。

いつだったか、テレビを見ていたらぬいぐるみが旅をするという話をしていました。


世の中には、旅がしたくても私の様な理由ではなく、病気とかで遠くへ行けない方がいらっしゃるんですよね。
そんな方の代わりに、依頼された方のぬいぐるみを預かって旅をするというんです。
ぬいぐるみが、その依頼者の代わりになるんです。
そして、旅先ではぬいぐるみを置いて記念写真を撮り、思い出をもって帰って来る。
その写真を見ることで、依頼者もその旅に出かけた気分を楽しむということらしいです。

そんなことを、ビジネスとしてやっている方がいるんです。
ちょっと驚きましたが、でもどうしても、自分の足で旅することが出来ない方の場合、いくら絵葉書等で
観光地を見てもそれはあくまでも場所の案内写真でしかないんですよね。
だけど、自分の分身として自分の思いを込めたぬいぐるみが、自分の行きたい場所へ訪れその場所の写真を撮って来たものを見るというのは、万人向けに作った絵葉書を見るのとは全く違った喜びを感じることが出来るのでしょうね。

でも、今の世の中には、昔には考えられなかった様な仕事が沢山あるのですね。
私の育った時代だったら、「お仕事」と言えば生活に密着した、お医者さんとか看護婦さんとか電車の運転手さんとかっていうようなものばかり、辛うじてプログラマーとかキーパンチャーなんてコンピューターに関する仕事が目立ってきていたくらいでした。
そう、「仕事」っていう硬い感じが仕事だったような・・・・

だけど、人の役に立てる事、人が喜んでくれる事を仕事として出来たらとても素敵です。


そして、ここにも旅することを仕事にしてしまったお話があります。

「旅や おかえり」


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このお話は、元アイドルの丘えりかはだんだん売れなくなり、今では崖っぷちの元アイドル。
残った仕事が「ちょびっ旅」という旅行番組だけ。
ところが、その番組でスポンサーの名前を間違え、何とか続いていた番組が打ち切りになってしまった。
仕事を失ってしまい途方に暮れていたある日、電車の中にバックを置き忘れてしまう。
何日かして、そのバックをもって一人の女性が丘えりかの元へやってくる。
そこで、その女性から旅の依頼を受けることになる。

その仕事をキッカケに、丘えりかは「旅屋」を始める。


一見「旅屋」っていうと、とてもお気楽で美味しい仕事の様に思いますが、本を読んでいると旅の雰囲気を依頼者の希望通りに伝えるってとても難しい事なんだって思いました。
旅を依頼する人は、いろんな環境の中に居て、旅に望んでいる事も色々。
依頼人の気持ちに沿った旅をする・・・・でも、そんなことばかり意識していると旅の代行している側は楽しくない。
旅の代行と言っても、代行する者も楽しめない旅は依頼者が見ても旅の楽しさは伝わらないんですよね。

旅の代行業って、旅の楽しみ方をよく分かっていて、人の気持ちを理解出来るような優しい心をもっていないとできない仕事。

先に書いた依頼者のぬいぐるみを旅させるお仕事も、ただのアイデアでやっている仕事ではなくて、きっとその仕事をしている方にも何かあって、その仕事を思いついたんでしょうね。
きっと、姿はぬいぐるみでも共に旅をしている添乗員さんにとっては、依頼者そのものと思って旅されているんでしょうね。(^_^)

私は、その気になれば旅に出ることは出来ますが、でも私の代わりに私のぬいぐるみを旅に出してみたくなりました。
旅先は・・・・やっぱり思い出の地ですよね。





自立と自律☆ [読書]

このところ、文の幼稚園通いと娘の卒業準備やらなんだかんだと忙しく、ブログを書き始めても最後まで完結できず、途中になっているものが増えてきてしまっています。(⌒-⌒; )
それで今日こそは、その中の一つを完結させようと、意気込んでPCに向かっています。

さて、来週は娘の大学の卒業式。
娘が私の手から離れ始めたのは、幼稚園に入ってから。
少しずつ少しずつ離れている時間が長くなって行き、今では一緒にいる時間を考えた方が早い。
子供も親から離れる時間が長くなって行くと、いろいろ辛いことも多くなって行く。
先日娘とも、そんな話をしていたら、娘は小学校の時がとても辛くて、環境が変わって沢山の新しい友達に出会う為にも、早く中学生になりたかったそうです。
その気持ちは、親の私もよくわかっていました。
娘は、私立の小学校へ入ったのですが、女の子の人数がとても少なく、そのせいでお友達の取り合いが激しく、その戦いで結構悪口を言ったり、のけものにしたりが多かったんです。
その中で過ごさなくてはいけなかった娘はとても辛かったと思います。
何しろ娘は平和主義者なので、自分が関わっていなくても、友達が意地悪されている現場を見ていることも辛かった様です。
そして私も、娘が学校で意地悪されていることを娘から聞いた時は、驚きというよりもどうやってこの子を守ってあげられるのかすごく考えました。
そして、今娘に必要なのは「自分は一人ぼっちではない」ということを伝える事が大切と思い、「どんな時でも貴方のそばにはパパとママがいるから。そして、先生も貴方を守ってくれるから」ということを、いの一番に伝えました。
幸いなことに、学校の先生も娘の話を聞いてくれ、とても力になってくれました。
そういう話は、担任の先生だけではなく教頭先生にも話が入っていて、教頭先生も娘に「先生が貴方をちゃんと守ってあげるから安心しなさい。」と言ってくれたんです。
でも、どんなに守ってくれても、子供の心から消えることはないんですよね。

娘と小学校の時の話をすると、いつもその頃の話になり、今も娘の心の中には深い傷を残しているんだなぁということを感じます。

でも、きっとこういう仲間はずれ的な経験は、誰にでも一度くらいはあるのかもしれませんが、同じ事をされても忘れられる子と忘れられない子がいるわけで・・・・
私も、娘と同じで忘れられないタイプ。

あれは、小学校の4年生か5年生の頃だったと思います。
朝学校へ行くと、そのころ仲良くしていたお友達二人がやって来て「今日から、◯◯ちゃんと話しをしちゃだめだからね。」と言うのです。
当然「何で?」と聞き返す。
すると、二人は「何でも。もし話ししたらMieちゃんとも話ししないからね。」と言われた。

前日、学校から一緒に下校した私達、何の問題もなく別れた。
なのに、なんで急にそうなるのか・・・・
私は、弱虫で寂しがり屋なのだけど、納得しない事には動じない。
とは言っても、正直仲間はずれは嫌だ。
だけど、◯◯ちゃんは私に何か嫌なことをしたわけではない。
だから、私が◯◯ちゃんを無視する理由はどこにもない。
短い時間の中で、私が出した結論は友達二人から無視されても◯◯ちゃんを無視し、仲間はずれにすることはできはないということだった。
だから、私は言うことを聞かなかった。

すると、友達二人は宣言通り、私を仲間はずれしました。

でも、全然辛くもなかったし寂しくもなかった。
友達はその二人だけではないし、何よりも命令されたり脅されたりして自分になんの危害も加えていない人を傷つけることの方が、自分としてはとても辛いことだったから。

それにしても、わからないのは何故急に◯◯ちゃんを無視する事になったのか。
◯◯ちゃんにも聞いてみたが、当の本人も良くわかっていなかった。
でも、何日かして友達二人は謝ってきて、またいつも通り仲良くなりましたけど・・・・(^_^)☆

時代は変わっても、何故か人の心を傷つけることってなくならないんですよね。
女の子は、仲間はずれ。
男の子は、取っ組み合いの喧嘩。
でも、昔はと今の違いは、意地悪をして相手を傷つけても、いつまでもそれが続くわけではなく、いつしか仲直りしていて、また一緒に遊んでたりしていた。
確かに、仲直りはしましたが、その時の事を未だに覚えているのは、やっぱり悲しかったのかもしれません。

今の様にいつまでも・・・・ということはなかった。
でも、意地悪されている時というのは、どこにも逃げ場がないんです。
それでも意地悪されている子は、自分一人でどうにか逃げ場所を探そうとする。

そして、ここにも膝を抱え身を丸めて耐えている少女がいましす。
それが、少女の現実から逃げる方法。


「なでしこ物語」


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このお話は、父を早くに亡くした後、母との二人暮。ある日その母に捨てられ一人ぼっちになる少女耀子は、学校では友達にいじめられ、その度に膝を抱え身を丸めながら現実から逃げる事を身につけて行く。そして、母親の顔を知らず、虚弱な体ゆえに従兄弟からりいじめられ、横暴な父親の元で自由を奪われ自分の本当の気持ちも言えず我慢して生きる立海と、夫を亡くした後生きる力を亡くし、過去に浸りながら日々を送る照子。
この三人が山間に立つ豪邸で出会う。
そして、立海の家庭教師の青井や豪邸で働く人々に支えられながら、三人は少しずつ気持ちを前向きにしていく・・・・いこうと思えるようになっていく話です。

読み始め、正直辛かった。
学校でイジメにあっても、自分も守ってくれる親もなく、自分を守ることが膝を抱えて身を丸め耐え忍ぶだけ・・・・
小学校の四年生という、まだまだ一人では行きていけない年齢の耀子がかわいそうで仕方なかった。
人にいじめられると、だんだん自分に自信がなくなって、「自分はダメな人間」と自分で勝手に思い込んでしまうんですよね。
そうなると、すべての行動がマイナスに動いてしまい、益々いじめられてしまう。
本当は、そういう時こそ親が「そうではない」と勇気付けて上げなくてはいけないのに、その親は子供を捨てて何処かへ行ってしまう。

でも、諦めてしまってはいけないんです。
耀子の前にも、救世主は現れた。
立海の家庭教師の青木が、耀子がイジメられていることを知り、あることを教えてくれる。
それは、考え方を少しだけ変えてみるということ。
そして、いじめられないためには、自立と自律が必要であると。

自立・・・・顔を上げて生きること。
自律・・・・美しく生きること。新しい自分を作ること。

一見、「イジメ」と「自立と自律」って関係無い様に思いますが、読めば読むほどこの関係は深いと思ったんです。

イジメをされている子は、先にも言いましたが「自分はダメな人間」と思ってしまって、だんだん顔を下げてしまい、イジメる子の視界に入らない様な行動になってしまうんです。
そして、イジメられている子は周りから自分を否定されていると思ってしまうので、自分で何かを変えていこうという気持ちがなくなってしまう。

でも、これはイジメにあっている子だけに当てはまるわけではなく、人間誰にでも当てはまることなんですよね。

イジメをしてる子も、やっぱり「自律と自立」が形成されていないがために人をイジメてしまうのではないかと思うんです。

今は、「群れる」という言葉が良く使われていますが、老いも若きも皆「群れて」生活しているようで、「自律と自立」がしっかり形成されていない人間が増えてきているのではないでしょうか。

ちゃんと「自立と自律」が形成されていれば、意地悪されたとしても嫌だけど、そんなことを相手にすることなく、自分の道を生きていける強い人間になれるような気がします。


今回は、いつも以上にダラダラ書いてしまいましたが、どんな時にでも相手の身になって物事を考えられる人間でありたいと思うのです。
そして、世の中から「イジメ」がなくなるといいなと思います。


今回読んだ「なでしこ物語」は、とても切ない気持ちになって、何度も涙を流してしまいましたが、でも読み終わった時、とても爽やで暖かい気持ちになれるそんな一冊でした。

いつものことながら、あまり上手に本の説明ができず、皆さんにどう伝わったか心配ですが、本屋さんへ行った時、この本を目にしたら手にとってペラペラってしていただけたら嬉しいです。(^_^)☆












大切なことは・・・・☆ [読書]

うちの娘は、小さい頃から活字を読むことが大好きで、どんな物でも活字が書いてあれば読んでしまう。
そう、チラシでも何でも。
熱を出して寝ている時でも、黙って寝ていることが嫌で、お買い物した時お店から頂いていたチラシを隅からすみまで読んだりしているので、結構雑学的な知識もついたりして・・・・
あっ、もちろん本も沢山読みます。
なので、図書券や図書カードを頂くと、すっごく喜んで即本屋さんへ行って本を買ってきていました。
そんな娘は、昨年卒業論文を書く為、読む本はすべて専門書ばかり。
さすがに、専門書ばかり読み続けていると普通の本が恋しくなるらしく、昨年の暮れ辺りには「あぁ〜もう普通の本が読みたい。」と愚痴っていました。
が、先日卒業論文の発表も終わり、やっと普通の本が読める状況になりました。

そして、普通の本を我慢し、専門書を読み続けて来た結果、卒業論文は優秀賞を頂けることに。(^_^)

そんな話をしにママの部屋にやってきた娘。
ママの本棚を見て、「ママのおすすめの本は何?」と聞いてきました。

私、ブログに本を紹介させていただいてますが、娘にも楽しかった本はすすめてきたんですけど、ずっと相手にされなかったんです。(⌒-⌒; )
まぁ、娘にしたら卒業論文を書くのに大変なのにそんな悠長に専門書以外の本を読む余裕などあるわけないじゃないって思っていたんだと思います。

やっと、時間に余裕が出来て、ママのおすすめを聞いてみようと思ってくれたようです。

でも、今は失敗したと思っているかも。
私、嬉しくてまだ読み終わる前から「これいいよ。」「これは、楽しいよ。」って次々に本を出してくるものだから、娘・・・・少々苦笑い。
でも、同じ本を読んでいると、本の話ができるので楽しくなっちゃいますよね。(^_^)☆



さて、今回紹介する本ですが・・・・

突然ですが、皆さんが小さい頃、「自分はもらいっ子ではないか」又は、「拾われた子ではないか」って思ったことはないですか?

私は・・・・

あります!!

父と母が、姉のことばかり大切にしている様に思えたり、近所のおばさんが姉が父と母によく似てかわいいなんて言ってるのを耳にし心を痛め、「私は、お父さんとお母さんの子供じゃないのかも」なんてよく思ったものです。

そして、こんな思いを持っている私に、母は「あなたは、橋のたもとで拾ったの」なんて言ったことも。
そんな小さい頃傷ついた話をパパにした時、パパも「あぁ〜言われた。僕の場合は橋の下だったよ。」と。(笑)


子供の時って、ちょっと叱られたりした時に、「橋のたもと」とか「橋の下」とかで拾われたことになってしまうんですね。

今思えば、どう見ても私の顔は母に良く似ているし、姉とも電話の声が良く似ていると言われます。
自分でも、鏡に写る自分の顔を見て「姉に似てる」と思ったりするので、間違いなく私は父と母の子供のようです。(笑)

って、なぜ急にこんな話をしたかと言うと、今回紹介する本が、正にそんな話なんです。

その本の題名は「卵の緒」

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小学四年生の育夫は、自分は拾われた子ではないかと疑問を抱く。
育夫にはお父さんはいなく、お母さんとの二人暮らし。
おじいちゃんとおばあちゃんに、自分が拾われた子供ではないかという疑問を投げかけると、何となく歯切れの悪い返事。
疑惑は大きくなる。
そんな時、学校で「へその緒」の話を聞く。
そして、お母さんに「へその緒」を見せて欲しいというと、お母さんが持って来た薄く模様の入った和紙でできた箱。
その箱は、先日食べた紅白饅頭の入っていた箱だった。
その箱を開けると、中に入っていたのは・・・・

何と・・・・卵の殻。

育夫は、「これは卵の殻でしょ」というと、お母さんは「母さんは育夫を卵で産んだの。」という。
お母さんが真面目な顔をしていうのだから、そうかもしれないと思いつつも、「へその緒は、親子の証だって先生が言った」といい、自分とおかあさんの証は卵の殻なのかと聞くと、おかあさんは「まさか」という。
そして、「証っていうのは、物質じゃないから目に見えないものよ」という。

普通のストーリーだと、自分が拾われた子だと思ったら、流れとしてそれまでの生活が一転して、親子関係がギクシャクし、暴力や涙とか悲惨な状況に発展していくもの。
ところが、この「卵の緒」では、そういう流れはなく、淡々と日々が流れていくんです。
普通の毎日が・・・。

ある日、お母さんが郁夫との関係について話をするんです。
それは、とても驚く様な話ではあるんですけど、郁夫はその話を素直に受け入れる。

その時の話は、ここでは話さない方が良いと思うので、もし読んでみようと思われた方のお楽しみにしておきましょうね。(^_^)

でも、私はこの本を読んで思った事は、家族とか親子というのは決して血の繋がりだけではないということ。
大切なことは、親が子供を「好き」である事。
子が親を「好き」である事。
「好き」という気持ちがとても大切なことで、血が繋がっているとかいないなんて事は、そんなに大きな問題ではないのかもしれないと思いました。


今は、自分の産んだ子供なのに、殺してしまう世の中。
自分が産んだ子供なのに、「好き」という気持ちがなかったんでしょうね。
とても悲しいことです。


人間と動物を一緒にしていいかどうかはわかりませんが、動物に対してだって実際に自分が産んだ子ではないし、当然血の繋がりなんてないけれど、こんなに可愛いと思い愛おしく思えるのは、やっぱり「好き」という気持ちがあるからなんですよね。(^_^)☆

「好き」って気持ち、とても大切ですね。







魔法って魅力的☆ [読書]

皆さん、ハーブってご存知ですよね。
まぁ、ハーブってラテン語なわけで、平たく言えば草を意味する。

ならば、草ならば何でもハーブというのかと言えばそんなことはなく、あまりはっきりした定義は無いようですが、取り敢えず人間が口にすることで役に立つ様な植物をいう様です。

て言うと、ハーブってすごく特別な草の様に思えてしまいますが、物としては昔から耳にし口にしたことがあるようなシソ・ヨモギ・生姜・ニンニクなどよく知られているものから、日々飲んでいるお茶もハーブの仲間だったんですね。
ハーブは香り高く心に安らぎを与えるだけでなく、今のように薬があまりなかった昔は、薬として病気などの治療として体に取り入れていました。

と、まるでハーブに詳しいかの様に話していますが、正直あまり詳しい事は知りません。
でも、意識しはじめたのは、もう十数年前でしょうか・・・・
私は、香りに興味があることからアロマテラピーに触れるようになったんです。
趣味として、アドバイザーの資格もいただきました。(⌒-⌒; )

アロマオイルは、香りを楽しむだけでなく、生活に色々取り入れてお掃除に役立てたり、体のケアーにも活用したりして、我が家でも色々活躍しています。
そんなことから、オイルを楽しむだけでなく、オイルを抽出する前のハーブを口にすることへも興味を持つようになりました。
ハーブを口にすると言っても、お料理への使い方がわからず、結局「お茶」・・・・「ティー」としてしか楽しむ事が出来なかったのですが・・・・。
ペハーミント・カモミール・ローズマリー・ジャスミン・ハイビスカス・ローズヒップ。
最初は、単品で香りと味を楽しみ、少しして自分なりにブレンド・・・・というほどでもないですが、本を見ながら、恐る恐るブレンドを作り試してみたりしているうちに、少しずつタイムとかローズマリーをお料理に使ってみたりして、ほんのちょっぴりステップアップ?
でも、それ以上進まなかった。
使い方を考えすぎて、結局使えない。
洒落たものより、生姜やニンニクとかシソや柚子といった日本で馴染みのものしか使えない、本当に私は日本人なんだなぁ〜と自覚。(笑)

でも、ハーブはとっても興味があって、今でも肩の力を抜いた使い方をしたいと思っています。(^_^)


そして、先日なんですが、いつものように本屋さんの中を散策していたら、こんな本を見つけました。

「魔法使いのハーブティー」

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私、いい年して恥ずかしいのですが、「魔法」っていう言葉に惹かれてしまうんです。
そして、これまた興味のある「ハーブ」という文字が目に入ってきたら、もう手に取ってみるしかない・・・・というよりも、すでに手が伸びていました。

内容は、母一人子一人の母子家庭に生まれた主人公。
7歳の時に、母親を事故で亡くし、その後親戚の間をたらい回しにされる生活。
そして中学三年生の時、夏休みの間だけ横浜に住む伯父さんの所へ身を寄せる事になった。
しかし、伯父さんとは一度も顔を合わせたことがなく、不安な思いで一人横浜へ。
伯父さんの家は、立派な石垣と立派な門がある洋館。
その家の一角で、小さなカフェを営み、庭で育てたハーブでハーブティーを出していた。

突然現れて少女に、伯父さんは同居するにあたって「魔女の後継者として魔法の修行に励むこと」を提示してきた。
しかし、少女は「魔法」が何なのかよくわからなかった。
けれど「わからない」と言ったことで、自分の住む場所をなくすことを恐れ承諾する。
少女の日々は、庭のハーブを伯父さんと一緒に手入れをし、ハーブティーの淹れ方やハーブの知識を教えてもらう。

そんな日々を過ごす中で、少女は今まで感じなかった安らぎと心地よさを感じ、ずっとここにいたいという気持ちが大きくなる。
すると、気持ちが通じたのか、ある日伯父さんから少女が望むならずっとここで住まないかと。
そして、養子縁組をしてもいい。と言われる。

そんな時、突然現れたヤクザのような男に、少女は拐われてしまう・・・・


色々な事件が起こりながらも、解決の先には必ず一杯のハーブティーがそこにある。
まるで、魔法にかかったように、ハーブティーが人の心の戸を叩き、思い出を呼び起こす。
時には、人に変わってメッセージを伝える。
ハーブって、魔法のようですよね。(^_^)

そして、所々で月との会話?があるんですけど、それも神秘的で魔法を感じさせられました。


今回の本は、ハーブティーの淹れ方とか効果を主人公の少女と一緒に学び・・・・というか、知っているハーブばかりだったので、読みながら「あぁ、これはこんな感じでこんな効果があるのよね。」なんて先回りして答えを思い浮かべ、その通りの言葉に満足したりと、いつもと違った本の読み方が出来て楽しかったです。
そして、各章毎にまとめの様な感じで使われたハーブと効能が書かれていて、初めてハーブに触れた人に役立つ本です。




ちょっと話が反れてしまいますが、ハーブって惑星と関係があるらしいって知ってますか?
ローズマリーは、太陽
カモミールは、月
ゼラニウムは、金星

とかって、ハーブが持つ性質とか特徴から支配星を結びつけて考えたりするみたいですね。



さて、今日はカレーを作ろうと思います。
本の中で、あるおじいさんが奥さんの作ったカレーを作ろうと思うが、どうしても同じものが作れない。
奥さんの作ったカレーは、市販のルーを使ったものだけれど、その中にはひとつまみの愛情が入っていることだけしか分からない。
聞きたくても、今はその奥さんはこの世にいない。
そんな時、少女の伯父さんはおじいさんの庭を見て、「ひとつまみの愛情」の正体も知るんです。
その「ひとつまみの愛情」を入れることで、市販のルーがとっても美味しくなる。

って書いてあったんです。
なので、今日は私・・・・作ってみます。
「ひとつまみの愛情」を入れたカレーを。

と、そんな話を娘にしたら「あれ?ママ、いつもお鍋に向かって"愛情"の一言入れていたんじゃないの?」って言うので、「今日は気持ちだけじゃなく、物質的に入れるの!!」と言うとね「あら残念。今日はバイトだから食べれない。」ですって。(ー ー;)

まぁ、よいよい。
ママは、本当に変わるのか、それを知りたいだけなので。(^_^)






中身の濃い話☆ [読書]

昨年の暮れ、あるテレビ番組を観ていたら、映画の撮影中の樹木希林さんの映像が出てきました。
その姿は、割烹着?に白い帽子の様なものをみに着けている姿。
シーンは、あんこを作っているところでした。
タイトルは、そのものズバリの「あん」。

それを聞いた時、「あぁ〜何か老舗和菓子店の話なのかな?」と思い、映画が上映される前に本を読んでみようと思い、本屋さんへ本を探しに行ったんです。
でも、誰が書いた本かもわからず、「あん」題名だけでは探すことが出来なかったのですが、「ならば電子書籍で検索したらあるかもしれない」と思って検索してみましたが、やっぱり見つからない。
そんな事をパパに話した所、パパがネットで検索して探してくれたんです。
(自分だって探せるのに、面倒臭がりで徹底的に探さないズボラな私です。)

パパが検索して本は見つかりましたが、単行本の為1500円したんです。
文庫本では出ていないということで、高いと思いながらもどうしても読みたくて・・・・買いました。

とても読みやすい本なのですが、何分にも年の瀬ということと、単行本の為持ち歩くと重いので出かける時持って歩けず、寝る前にしか読む時間がなかったので時間がかかってしまいました。

でも、読むのに時間がかかってしまったのは、それだけの理由ではないのです。

内容は、確かにあんこが関係していましたが・・・・
甘いものは、人を幸せな気持ちにしてくれます。
でも、ここに出てくるあんこは、とても美味しいれけど、それだけではなくその美味しさの中には人の人生に関わるとても深いお話に繋がっていて、軽く読む事が出来ず、色々な事を考えながら読んでいました。

この「あん」という話は、最初に思っていた「老舗和菓子店」の話ではなかったんです。(´・_・`)

「あん」
著者は、ドリアン助川


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本の内容は・・・・

過去を持つ辻井千太郎は、「どら春」というどら焼き屋の雇われ店長をしていた。
そこへ、求人の貼り紙を見て雇って欲しいとやって来たのは、74歳になる吉井徳江。
しかし、彼女の手は昔病気をして、その後遺症の為指が曲がっていた。
千太郎は、そんな徳江を見て一端は断るが、徳江の作る「あんこ」の美味しさを知り雇うことにした。
徳江の作るあんを使う様になって、どら春は繁盛するように・・・・
ある日、どら春に良く来ていたワカナちゃんという女の子が、徳江に何で指が曲がっているのか尋ねる。
徳江から病気の後遺症で・・・・と聞いたその日から、ワカナちゃんはどら春へ顔を見せなくなる。
それからしばらくして、徳江の曲がった指の原因となった病気が、ハンセン病であるという噂が街に広がる。
どら春のどら焼きが売れなくり、徳江はどら春を去ることになった。

千太郎は、すでに徳江の病気がハンセン病であることを知っていて、自分なりにハンセン病が人に移らない事をしていたが、徳江が店を去る時引き止めることができなかった自分を責めていた。
徳江がいなくなってから、千太郎はやる気をなくしてしまう。

そんなある日、千太郎は徳江の住む街へ行く。
そこは、ハンセン病になった人を隔離した場所。
ここへ入った者は、全てを無くす。
育った場所も家族も、そして・・・・自分自身も。
そう、戸籍からなくなってしまうのだ。
そして、この療養所で新しい名前をもらい、別の人間として生きて行く。
死ぬまで外の世界へ出ることなく、ひっそりと死んでいく。

でも、今は療養所にいる人はみんな完治しており、外へ出られるように成った。


この療養所で、徳江と待ち合わせた千太郎は、徳江からこの療養所へやってくるまでの話、そしてここでの生活での苦しみなどを聞いた。

徳江の作るあんこがとても美味しいのは、この療養所の中での生活の苦しさから生まれた思いがあったからだった。

千太郎は、どこか投げやりな思いがいつもどこかにあったけれど、徳江と知り合うことで前向きに生きて行く気持ちになる。


と言った様な内容ですが、ラストはとても胸を打つ感じになってます。
あまり、詳しく書くのも・・・・
と思いますので、興味を持った方は是非本で読むか、映画をご覧になってみると良いと思います。


人間は、みな何かしら目的というか、生まれてきた意味があると思います。
これは、本の帯に俵万智さんが書かれているのですが、私も同じことをずっと考えています。
もう何年もというか、何十年も考えてきていたことです。
自分はなんの為に生まれてきたのか、自分は何をすべきなのか・・・・
今も考えています。

そして、この本を読んだ時、「やっぱり、人間が生まれてくることには意味があるんだ」と感じました。

それは、大きな意味でなくても、どんなに小さなことにでも意味がある。

吉井徳江さんは、小さい頃にハンセン病になって親や兄弟から引き離され、自分の戸籍まで奪われ、狭い囲いの中に隔離された人生を余儀なくされた。
周りは、自分と同じハンセン病患者ばかり。
その病状は、軽い人重い人、全てが一緒に閉じ込められていて、同じ病気でも自分以外の人を見るのはとても辛いことだった。
そんな生活の中だからこそ、見えてくる物や感じる事がある。

与えられて環境の中で、いかに前向きに生きていくか。
徳江は、自分の周の目に見える物全てに耳を傾けた。
空や雲や風。
草や木や花。
鳥や蝶や虫。
それぞれに耳を傾け、それらの声を聞こうとしたんです。

あずきもそう。
あずきは、丹波の・・・・とかって私たちはいいますが、徳江はどんなあずきでも素敵なあんに作り上げたんです。
それは、あずきの声に耳を傾け、あずきの望む火の入れ方や蒸らし方を変える。
だから、美味しいあんが出来上がる。

そんな美味しいあんを、みんなに食べてもらうことができ、また徳江の生き方が千太郎を救うことができた。

徳江は、辛い人生だったと思うけれど、徳江の生き方が人の心を動かしたことは間違いない。
それが、徳江の「生まれてきた意味」だったんだろうと思う。


自由に生きられる者には、決して見つけることや感じることが出来ない事を、神様は徳江に与えてくれたんですね。


この本を読み終えた時、いろんな思いがあって、どういう方向でここへ書こうかと悩みました。
内容的に「同和問題」も考えるべきところもあるのでしようが・・・・
でも、いい年して情けないですが、あまりにも難しくて・・・・というか、考えていくと私もただの人間。
優等生な発言は嘘になるので、「生まれてきた意味」を考えてみました。

皆さんは、この話を読んでどんな事を思われるんでしょうね。(^_^)













「ほっこり」ではなく「じんわり」☆ [読書]

随分昔の話ですが、家の近くに、あるコンビニが出来たんです。
世の中のお買い物の仕方が、変わった時です。
だって、それまで買い物は、昼間スーパーで必要な物を買い、買い忘れてもお店が閉まってしまえば「あぁ〜残念。明日買いましょう」と諦める。
これが、それまでの買い物の仕方・・・・でしたよね。
そんな生活の中に、7〜11時まで開いているコンビニができた。
当初私は、「そんな遅い時間までお店を開けている必要性はあるのか」「長く開けていても、お客さんいないんじゃないのか」なんて思ったものでした。

ところが・・・・

ある日、どうしても必要な物が出来たんです。
時間は、もうどこのお店も閉まってしまった時間。
「どうしよう」って思った時・・・・「あっ[ひらめき]」気が付いた。

「コンビニが開いてる!」

でも、必要としているものがあるかどうかわからない。
なんてったって、コンビニへ行ったことがなかったので、コンビニにどんな商品が置いてあるのか知らなかったんです。(- -;)

自分の欲しいものがあるかどうかわからないけれど、取り敢えず行ってみました。

すると・・・・あったんです。(^^)
そして、コンビニには、色々な商品が揃っていることを知りました。


その時思いました。

「開いてて良かった(^^)」

これ、そのコンビニのキャッチフレーズだったんですけど、その時本当に「正にその通りだ」なんて、家族で感心してしまったことを覚えています。(笑)

そんな事を実感してから、もうどれくらいの年月が経ったのかな?
今では、コンビニの店舗数は増え、営業時間も更に伸びて24時間という眠らないお店になってしまったんですよね。

しかし、品数豊富で眠らないコンビニになっても、どんなに探しても買えないものって世の中にはあります。

どうしても買えないもの・・・・

それは、「過ぎ去ってしまっ事への後悔」であったり、「もう二度と姿を見ることの出来ない相手の気持ち」だったりとか、「突然姿を消してしまった人の行方」とか、「自分への自信」だったりとか・・・・

こういう形のない物の解決方法は、コンビニに限らず、どこへ行っても売っていません。
そもそも買うものでもないです。
でも、人の心の中には、何かしらいつまでも離れず、それを解決する方法も見つからないまま残っている場合があります。
心の中の、ずっとずっと奥深いところで・・・・
そして、どこかで「あの時にもどれないか」「あの人の思いを聞いてみたい」「自分はこれでいいのか」なんて、その答えを探し求めて、先へ進めなかったりすることがあります。

そんな思いを持った人の目の前に、その探しもを売っているコンビニが現れるとしたら・・・・
行ってみたいと思いませんか?


えっ?そんなコンビニがあるわけないって?
あるんです。

風早の街の、駅前商店街の街はずれへ夕暮れ時に行くと、古い路地の赤い鳥居が並んでいる辺りで、その不思議なコンビニを見つけることがあります。

「見つけることがある」

そう。
誰でも見つけられるわけではないのです。
本当に、大切なものを探している人の前にだけ現れる。
その不思議なコンビニは、「たそがれ堂」と言います。

今回紹介する本は、「コンビニたそがれ堂」という本です。


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この「コンビニたそがれ堂」に出会った人は、どんな人なのか・・・・

ある日、女の子がある男の子にメモ帳を差し出すんです。
その女の子と男の子は、女の子が道端に捨てられていた子猫を見つけたけれど、その女の子のお母さんが猫アレルギーがあり、女の子も多少そんなアレルギーがある為、子猫を飼うことが出来ず、かといって子猫を見捨てることが出来ず困っている時に、男の子が通りかかり、女の子に変わって子猫を飼うことにしたんです。
そんなことから、男の子と女の子はとても仲良くなりました。
しかし、男の子は女の子の差し出したメモ帳を受け取らなかった。
それは、周りの友達を気にして、女の子が差し出したメモ帳を受け取ることができなかった。
そんかことがあった後、女の子はお父さんの仕事の関係で海外へ行ってしまい、会うことが出来なくなってしまった。
男の子は、とても後悔したんです。
その女の子が差し出したメモ帳は、女の子がとても大切にしていていたことを男の子は良く知っていたから。
そんな大切なメモ帳を自分にくれようとしたのに、自分は受け取らなかった。
そのことをとても気にしていた時、男の子は「コンビニたそがれ堂」に出会ったんです。
そして、そのコンビニで女の子のメモ帳を手にするんです。
メモ帳の中には、女の子からのメッセージが・・・・


そして、「コンビニたそがれ堂」に出会うのは、人だけではありません。
動物でも、大切な探し物があれば、このコンビニへ訪れることができるんです。

あんずという猫がいました。
その猫は、野良猫のお母さんから生まれました。
しかし、お母さんは重い病気の為、子猫を残し亡くなってしまいました。
そんな時、一人の高校生の男の子に拾われ、その高校生の家で飼われることに・・・
猫は家族にとても可愛がってもらいました。
けれど、猫は猫のお母さんの病気が既に移っていて、自分の命がもう長いことないことを知っていました。

猫は、死ぬ前に一度でいいから、家族と同じ目線で家族と接してみたかった。
そんな時、「コンビニたそがれ堂」に辿り着き、そこで人間になれるキャンディーを一つ買いました。
このキャンディーには、一つだけ気をつけなければいけないことがあります。
それは、自分が猫であることを言ってしまうと、自分の姿はなくなってしまうということ。

人間になった猫は、家族と一緒に遊んだり、カレーを食べたり、お母さんに感謝の気持を込めて肩もみしたり・・・・
猫のあんずは、とても幸せな時間を過ごしました。
そして、高校生のお兄ちゃんと花火を見に二階へ行った時、星を見ながらお兄ちゃんに、自分は猫のあんずだと告げ姿を消した・・・・


この話を読んだ時、もう泣きました。(T . T)


この本は、第4弾まであり私は2弾まで読みましたが、短編なのでお話にはつながりは無い為、第1弾から順番に読まなくても、自分の興味のある所から読んでも問題はないです。

どのお話も心がジーンとくるようなお話ばかりです。
そして、命あるものはいつか姿を無くす時がくるけれど、でもそれで終わりではなく、姿は見えなくなっても必ずどこかにその人はいるのではないかと思わせてくれる様な本だと思いました。

ほっこりする本を好んで読んでいましたが、今回はほっこりというより「じんわり」という言葉の方が合っている本でした。(^^)

















生きる事それは食べる事☆ [読書]

最近・・・・
でもないけれど、本屋さんで本を物色していると、食べ物を題材にした小説が多く出版されていることに気づきます。
これは、ブームみたいなものなんでしょうけど、「いつ頃からかな?」と考えてみると、私的にはやっぱりあの映画からかなと思うんです。

そう。
「かもめ食堂」ですよ。

私は、最初に映画(DVDで)を観てから、本を一通り読みました。
何だろう・・・・
この「かもめ食堂」に惹かれたのは、あらすじからだけではなく、「かもめ食堂」というネーミングに惹かれたというのが正直なところ。
特に「食堂」という響きに。(^^)

そして、食堂というだけあってお料理はとてもシンプルなもので、お店の看板メニューは日本のソウルフード「おにぎり」。
その他にも、生姜焼き定食や焼じゃけや卵焼き・・・・本当に普段から口にしているメニューだけれど、それがとても親近感が湧いた。

何よりも私の心を惹きつけたのは、「シナモンロール」。
舞台はフィンランドのヘルシンキ。
「シナモンロール」って、フィンランドのソウルフードみたいなものなんですよね?(自身がない)
映像の中で、私たちがおにぎりを簡単にキュッキュッと握るかのように、シナモンロールをササッと作る。
もう憧れてしまって、当時はレシピを探して、私も映画の中の様に真似してササッとシナモンロールを作って見ました・・・・
が、私のソウルフードは「おにぎり」。
「シナモンロール」ではないので、そううまくはいかなかったです。(^^;)

でも、なんででしょうね。
食べるものを見ると、食べてみたいとか作ってみたいとかって思ってしまうのは。


その後、「食堂かたつむり」という本を読み、映画も観にいきました。
やっぱり、「食堂」という言葉に惹かれたんです。(^^)
それからも、「食堂」とか「食卓」という言葉のついたものや食に関する本やDVDを読んだり観たりしました。

そこで気がついたんですけど、「食べる」ということは人の心を豊かにし幸せにする。
そして、そこには人が集まり笑顔が溢れる。

日々何気なくしている食事って、本当に大切な事。
食事は、お腹を満たすということだけでなく、心も豊かな気持ちにさせ生きる力となって行くもの。

ことわざに、「笑う門には福来る」っていいますが、正に「食べる」ことは、そこに福を招きいれるんですね。(^^)

朝食事をしないで学校へ行ったり職場へ行ったりする人がいますが、そういう人を見ていると下ばかり向いて表情が暗い。
下ばかり見ていては、「幸せ」は訪れない。

食べるということは、生活のリズムを作り、物事の判断を的確ですることができる。

知ってますか?
「食べる」ということを大切にする人は、たとえ命を落としそうな時でも、もう一度生きることができるって。


先日、こんな本と出会いました。

「食堂つばめ」

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私、いつもの様に、美味しいレシピを紹介してくれる様な本なのかと思って買ったんです。
ところが・・・・
ちょっと、違ってました。
何が違うって、この「食堂つばめ」は誰もが行ける所にはなかったのです。(- -;)

じゃあ、どこにあるのか。

そこは、この世とあの世の間に存在するんです。(^^;)
そう、だから誰もが行ける場所ではない。
ここを訪れる人は生きているわけでもないけれど、完全に死んでいるわけでもない人が行くところ。
要するに、臨死状態にある人です。
臨死状態にある人には、あの世で全うした人はもちろん、事故に遭った人、自殺した人、殺された人、病気になった人などもいます。

この「つばめ食堂」へ訪れた人を、店の店主であるノエという女性とノエと関わる三人が一緒に、色んな事情を抱えている臨死状態の人達を、もう一度生き返らせるお手伝いをするのです。
生き返る為のお手伝いが、「食べること」なんです。
臨死状態の人達は、お腹もすかないので「食べるという意識」がないのですが、そういう人達に思い出の食べ物や味を食べてもらって、生きる意欲を引き出し再び元の世界へと送り出す。


人には必ず忘れられない「味」ってあるんですね。
小さい頃通った駄菓子屋さんで「食べたもんじゃ焼き」とか奥さんが作った「肉じゃが」とか、毎朝お母さんが用意した朝食。
味噌汁の味。

「食堂つばめ」のノエさんは、そんな話を聞きながら出来るだけ思い出の味を再現してくれるんです。
そんなノエさんの作ってくれるお料理を食べると、もうこのまま死の世界へ行きたがっていた人も「現世に戻りたい」という気持ちになるんです。


読んで思った事は、「食べる」ということは、「生きること」なんですね。
「当たり前」と思われる方もいらっしゃることと思いますが、この「当たり前」のことが出来ない人が今の世の中には多いように思います。(- -)

今は、美味しい物が沢山あって、「どこそこの◯◯は、すごく美味しらしいから食べに行こう」そのために朝は抜こうとか「お菓子食べているから、ご飯食べなくても大丈夫。」とか「激辛が好き」とか言って、ちゃんとした味付けのお料理に信じられないほどの唐辛子をふりかける・・・・色々食べることの考え方がありますが、「食べる」ということは変わったことをすることはなく、1日3回規則正しく、素材の味を楽しみながら食べる・・・・それが大切なんだと思います。

どんな時でも、食べることを忘れない。
どんなに辛くても、食欲かない時でも、「食べる」ことを忘れず、食べ物を口にすることで明日への力が湧き、きっと明るい明日が見えて来るはず。

皆さん、食べる事を是非楽しんでください。

そして、健全な体と心を養っていきましょう。(^^)





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